2010年1月30日土曜日

袋田の滝



           ナイアガラの滝(アメリカ)

          ショースの滝(ノールウェー)

この一月中旬には袋田の滝はほとんど白い氷になっているとの情報があり、もう氷が溶けているのではないかと心配しつつ行ってみることにした。

12時につくばを出て常磐道から国道を走り、1時間半でまずは大子町のそば処「ますこ庵」に着いた。ここの蕎麦は細い蕎麦で香りもよく、またてんぷらも美味しくいただいた。その後袋田の滝に着いた。残念ながら氷はほとんど溶けて中段の流れのふた筋が凍っていたに過ぎなかった。

2年前の夏にも一度訪れているが、何段にも落ちる滝に夏場のつかの間の涼しさを感じている。滝といえばドイツに住んでいたとき、ノールウェーのフロム鉄道の途中駅から見たショースの滝と、アメリカ訪問時に行ったナイアガラの滝の壮大さには感激している。これらの滝の大きさとは比較にならないが日本での滝の中では比較的幅の広い大きな滝との印象であった。

聞くところによると1月を過ぎるともう凍るチャンスはないという。また来年を期待せざるを得ない。

2010年1月25日月曜日

土浦宍塚からの筑波山



自宅から北東約4kmのところに宍塚という小高い森がある。その南側には上高津貝塚という縄文時代の遺跡もある。森の中に大池という池もあり自然豊かな散策の場所として今までも何回か出向いている。しかしいつもは車でその貝塚遺跡駐車場まで行き、そこに車を置いていた。今日は初めて自宅から歩いて行くことにした。

自宅すぐ近くにも小さな森がありそこには鹿島神宮の分社がある。この正月にはお参りできるようにやしろの扉を開けお飾りで祝っていた。すでにそのお飾りもとり払われいつもの閉まったままのやしろになっている。このやしろはこの地区の氏神として信仰されているのだろう。そのやしろを抜けたところに我が畑がある。

さらに田舎道を歩いているとまた小さな神社に出くわした。やはり鹿島神宮の分社のようで隣地区の守り神となっているものと思う。この神社には伊勢神宮遷宮の垂れ幕がかかっており次回平成25年の行事を知らせていた。

伊勢神宮の遷宮といえば思い出す。父のふるさとは伊勢であった。外宮のすぐそばに実家があり、京都で生まれ育っていた私もよく訪れていた。6歳の時の記憶がある。ちょうどそのときが神宮の遷宮のときであった。祖母に連れられて遷宮行列に参加、そのときの祖母と一緒のはっぴ姿の写真が今も残っている。

平成25年はそれから60年経ったことを示す。それ以来3回目の遷宮ということである。我が先祖の魂は伊勢に祭られている。昨年も父の5年祭を伊勢で執り行った。すでに実家はないがこれからも伊勢とのつながりは続いてくものと思う。            

このような回想をしつつ、さらに森を抜けると上高津貝塚に達した。歩いて約1時間であった。この貝塚では貝、魚の骨の化石がたくさん発見されており、縄文時代にはこの近くまで海があり霞ヶ浦は海の一部であったことを思わせる。この貝塚から宍塚のなだらかな丘になっており木々の間を歩く。小高いところにお稲荷さんがありそこからの筑波山も趣のあるものであった。

帰りには我が畑に立ち寄った。ブロッコリーが出来ていたので摘み取り持ち帰った。すでににんじん、ねぎ、小松菜、水菜、ほうれん草、キャベツなど収穫し食べているが、ブロッコリーは初めての収穫であった。湯がいて食べるつもりである。

2010年1月22日金曜日

自宅からの筑波山

予約していたデュークエイセスのCDを入手した。活動55周年記念に収録したアルバムである。日本の歌シリーズの「女ひとり(京都)」、「フェニックスハネームーン(宮崎)」、「いい湯だな(群馬)」、「別れた人と(神戸)」、「ここはどこだ(沖縄)」、そして「筑波山麓男声合唱団(つくば)」などが収録されている。中学のときからコーラス活動をしていたがそれ以来学生時代によく歌った曲で懐かしく久しぶりにCDにあわせて歌った。男声合唱のハーモニーの魅力は独特のものがある。

筑波山麓男声合唱団
マウントツクバのフロッグコーラス
コンダクターはがま蛙
がまはがまでも四六のがま

セカンドテナーはあま蛙
ケロケケケケケケケケ
ケロケロケロケロ

ベースはがま蛙
グヮグヮ グヮグヮ グヮグヮ
グヮグヮ グヮグヮ グヮグヮ

バリトンは殿様蛙
ゲーゲーケロケロ
ゲーゲーケロケロ

テナーはかじか
ケケケ ケロケロー
ケケケ ケロケロー
ケケケ ケロケロー

昨日北茨城をドライブしたとき昼食に立ち寄ったお店はパンプキンというレストランであった。このご主人は音楽が好きでレストランにはピアノ、ギターなど楽器を置いておりライブも開催しているという。たまたまデュークエイセスのCDを久しぶりに聴いたとの話から会話が進み、特にカンツォーネが好きとの話になり意気投合して歌うことになった。                                                             歌は「オーソレミーヨ」。カラオケの設備もあり1番はイタリア語で私が歌い、2番はご主人が日本語で歌い、最も盛り上がる最後のフレーズを二人で歌い上げた。パバロッチには遠く及ばないが結構まだまだ声は出るようである。今つくばに住んでいることもあり、このデュークエイセスの「筑波山麓男声合唱団」をテーマソングに歌える機会が持てないかと思う。


2010年1月16日土曜日

成田山新勝寺


7年前の1月に東京自宅マンションの駐車場の順番がようやく回ってきて車を持つことになった。マンション購入時に駐車場の抽選に落ちたことから順番待ちだった。その後妻も運転免許を取りその車は妻専用車になっていた。つくばに住みだして私が暇になったことからほとんど私の車に便乗することなり妻が運転することがなくなった。ということで車検の期日にあわせて妻専用車を売却した。

この車、東京、広島は三原、つくばと場所を移しての運転であった。7年で走行距離36000kmで、つくばに来てからはほとんど走っていない。たまに4~5人の訪問者の場合2台の車で送り迎えする時と、車検など検査のときにやはり2台で行き車を預けて帰るときなど僅かな機会であった。昨日売却し手放すと、思い出が浮かび何かさびしいものを感じる。

この7年の間に一度トラブルがあった。東京は谷中の寺院が連なっている細い道で自転車に乗った子供が飛び出してきた。幸い最徐行していたので車にはぶつかったが打撲だけですみ大事には至らなかった。しかし車のボンネット横側はへこみ保険で修理したという経験をしている。

このように大きな事故もなくすんだのは、購入時お払いを受けた成田山新勝寺のお守りの賜物と感謝する気持ちもあり、今日はそのお守りを返すために出かけた。つくばからは国道で約1時間半である。お守りを返しお参りもした後、成田山新勝寺内をゆっくりと散策した。もう1月も半ば過ぎたが結構初詣の方々も多く賑わっていた。見上げると時たまジェット旅客機が寺院の屋根越しに青い空の中を通り抜けていく。小高い境内からはふたこぶの筑波山も望むことが出来た。

大学生のころ父が乗っていた車はフォルクスワーゲンビートルであった。19歳にして運転免許をとり父の車を運転していた。空冷エンジンでブルブルと結構大きな音を立てて走っていたように記憶する。その後他の車に乗り換えているが、生産中止になったこともありビートルの中古車は購入価格の倍くらいの値段で売れたと聞いている。いまでも旧ビートルは大変人気がありプレミアがつくという。しかし、今回のニュービートルは残念ながらそのようなプレミアがつくことはなかった。

2010年1月5日火曜日

自宅からの日光男体山

この正月は天気がよく自宅からは富士のみならず雪の日光男体山もきれいに望むことができた。思い出すに、初めて日光を訪れたのは27年前の秋であった。文化の日の休日だったように記憶する。家族で浅草から東武特急に乗り日光に向かっている。

東照宮から中禅寺湖におもむき、華厳の滝も初めて見学し、中禅寺湖付近からは雪のない雄大な男体山も見ている。また秋のみならず、春、夏にもドライブし、いろは坂、戦場ヶ原、奥日光なども訪れて、それぞれの季節の趣を味わっている。車で行く場合、紅葉シーズンは渋滞で時間がかかることから逆方向の群馬県側からもドライブを試みたことがある。結局奥日光手前から渋滞で同じことであるとの経験もしている。

終の棲家を探していたとき、その候補の一つが日光付近の土地であった。有名な日光杉並木街道に近いところで、まわりは田園風景の自然豊かな場所であった。結局断念したのは、年老いたときに生活が容易かという点で、一戸建てでは難しいと判断した。東京との行き来が楽で比較的便利で、しかもバリアーフリーで気楽に生活できるということで今のマンションにした次第。

日光を初めて訪れたときは子供はまだ小学と幼稚園。忙しい仕事の合間の家族日帰り旅行の楽しい思い出として記憶に残っている。これからもつくば自宅からは雪の男体山を見て楽しむと共に、また日光は比較的近いこともありいろんな季節に何度となく行ってみたいと思っている。

2010年1月4日月曜日

蚕影神社近くからの筑波山



つくばに住み始めて幾度となく筑波山に来ているが、旧筑波街道の筑波山のふもと田井地区にくるたびに気になっていたのが蚕影(こかげ)神社という道路標識であった。いつもは時間がなく立ち寄ることはなかったが今日はこの神社を訪れることだけを目的に出かけた。

田井地区に入ると右に折れる道があり蚕影神社との表示がある。左手真近くに筑波山を見ながら蚕影山という小さい山に向かって走るとその突き当りが蚕影神社の入り口であった。そこにはおばあさん一人で対応しているお店がある。そこから参道と思われる階段があり登っていく。初詣のつもりであるが人の気配はない。階段の途中には廃墟と化した土産物屋跡のような建物があるが手入れがほとんどなされていない。この山の中ほどに神社本殿と絵馬堂があった。その周りは木々で覆われ、年老いたおじいさんが一人散歩しているのみで全くの静寂の世界であった。

本殿のかわらには「蚕」の文字が刻まれており、この神社は蚕に関係していることがわかる。お参りした後、その参道階段入り口にあるお店に立ち寄った。おばあさんからこの神社は日本全国にある養蚕信仰の元であることを聞いた。養蚕産業が衰退して久しいが、養蚕全盛期には養蚕の神様として全国からたくさんの人の参拝があり、このお店も宿泊できる施設として賑わっていたそうだ。今ではお守り、土産物などの販売を細々と営んでいるようで、その当時の賑わった時代のことは想像できない。唯一の話題として、昨年公開された役所広司監督主演の「がまの油」という映画のロケが行われたとの事でその写真を掲示していた。さびれた雰囲気ということで選ばれたそうである。

養蚕産業は戦前の日本の外貨獲得の源で、日本発展の財源の元になった。蚕の繭から作られる絹糸はアメリカでは靴下として愛用され女性の足元を飾った。アメリカで発明されたナイロンはこの絹糸に対抗するものとして発明された。その対抗意識は日本養蚕業の元締めである農林省のNolynを反対につづりNylonとしたとも言われている。

この神社を信仰する人が少なくなり境内は荒れ放題である。蚕という生き物を絹糸以上の使い道、たとえば薬などのような付加価値の高い物作りが出来て初めて再興が出来るのであろう。昔国立大学に養蚕学科があり蚕の研究をしていた。今ではその学科はなくなり最先端の生体分子工学・応用生物学科となり遺伝子工学などの研究がなされている。近い将来その研究が花開き、再度養蚕業が日本の産業の一旦を担うようになればよいが、と思い巡らしつつ帰宅の途についた。

2010年1月2日土曜日

筑波山神社



  大晦日には自分で栽培した蕎麦を使って年越し蕎麦を味わう計画であった。蕎麦の実を摘み取りすぐにそば粉まで仕上げたかったが、その後の畑に小麦の種を蒔くことを優先して蕎麦は結局摘み取ったままになっている。大晦日になって常陸秋蕎麦の新そば粉を購入し手打ちの年越し蕎麦を味わい新年を迎えた。

  昨年は喪中でもあり新年の初詣は差し控えたが、新たな年になりつくばで初めて初詣に出かけた。筑波山のふもとから車はのろのろ運転になり一時間の渋滞の後ようやく筑波山神社に着くことができた。本殿に至る階段のところから参拝者の列が出来ており、いつもはわずかの人しか見かけない雰囲気とは全く異なる様相である。両サイドの参道には所々に出店があり筑波名物がまの油、がまの置物などを売っている。

  本殿の軒先には今まで見たこともないような大きな銅製の鈴があった。しかし参拝するときに鈴を鳴らせるようにはなってはいなかった。かしわ手を打って今年も健康でいられるよう願った。破魔矢を購入し駐車場に戻ったが、すでに夕暮れで山を下る途中夕日に映える富士山も見ることが出来た。

  この11日にはコーラスグループのデュークエイセスが活動55周年記念のCDアルバムを発売するという。その昔、日本の歌というレコードアルバムを出しており、学生のころその中の筑波山麓男声合唱団というガマガエルの歌をよく聴いたり歌ったりしていた。当時まさかそのつくばに住むとは考えていなかった。そのレコードはどこかへ行ってしまって手元にはない。その曲が入っているとのことでぜひ購入しまた聴いてみたいと考えている。
 
 
  新年早々、摘み取った蕎麦の実からそば殻をとり粉引きまでの作業が残っている。また大豆もさやに入ったままになっている。僅かながら刈り取った稲穂もある。余った大根はたくわんにすべく年末に漬物樽に仕込んだ。来月には食べごろになるのではないかと期待している。今年も食するものを自分で作る楽しみを続けたいと思う。