2009年3月7日土曜日

五浦の鮟鱇


一年前は広島は三原に住んでいた。ここの地酒である酔心は今ではその名の料理屋も東京にあり名前はよく知られている。このお酒をこよなく愛した人に横山大観がいる。とにかく酒好きで食事代わりに毎日1~2升酒を飲んだと言う。ほとんどアルコール依存症の中で作品を描いていたことは容易に推測できる。それを支えていたのがこの酔心の蔵元。代金代わりに作品を年に一回は送ってもらっていたという。四六時中酒が飲みたい大観と日本画の巨匠の作品が入手出来るという利害が一致したのだろう。今では酔心は大観展示会を定期的に催しているという。この横山大観が水戸の出身で岡倉天心と共に五浦に住み創作活動に励んだとのことを今回初めて知った。                                        
ニュースで五浦の茨城県天心記念美術館で「東京美術学校に学んだ日本画家たち」の特別展が開催されていると報じていたので出かけることにした。常磐道日立北で降りてまずは蕎麦の傳六で昼食をとった。住宅街にありもともと自宅の庭であった所に店を開いたと言う。細めの十割蕎麦とてんぷら、それから卵焼きを頂いた。蕎麦は腰もあり細いのでヌードル独特の感触も味わった。ただ卵焼きは甘みが強く、最近砂糖を食べないようにしていることもあり今の好みには合わなかった。以前なら喜んで食べていたと思う。                                                
今日は土曜日でもあるので自動車、観光バスなどでたくさんの人が訪れていた。東京美術学校の初代校長であった岡倉天心は当時まだ20才台であったと言う。明治の偉人は若くして重要なポストについて日本の近代化に尽くしたことが理解できる。その弟子の一人が横山大観である。天心が美術学校を辞めた後この五浦に住み大観などと共に創作活動を続けた。太平洋の小さな入り江の絶壁にその建物があり、太平洋の荒波の音を聞き、太平洋を眺望しながらの生活であったようだ。                                        
この近くには観光ホテル、民宿など観光施設もありこの景観を楽しみに来る人も多い。その中に鮟鱇料理店もありその玄関に鮟鱇解体の実物を見ることが出来た。ドイツ時代、ドイツの田舎では豚をつるして解体し骨以外はすべてソーセージなどに加工し食料として利用していることを知ったが、同じような食文化と感じる。鮟鱇鍋を食べたかったが、お昼のお蕎麦でお腹がいっぱいなので今回は断念した。次回はぜひとも鮟鱇鍋を食べたいと思う。

2009年3月5日木曜日

水戸偕楽園の太郎杉


季節の変わり目か? 最近ぐずついた天気が続いているが、久しぶりに回復し朝から日差しを見ることが出来た。11時ころにつくば自宅を出て水戸に向かった。水戸は今までにも何回か出かけているが、東京から出るため、行楽に一日かけて行くという気分であった。今回はちょっと近くへ外出するとの気楽な気持ちで出かけた。

40分ほどで水戸に着き昼食は蕎麦一久でとった。かなり腰のある細めの手打ち蕎麦で美味しく頂いた。ここは蕎麦の他におやきも有名とのことで、山菜と野沢菜の入ったおやきも食べた。なんともいえないうまみがあり絶品であった。

昼食後偕楽園に向かった。昔来た時は常磐線で偕楽園駅を降りてすぐ園に入った記憶がある。今回は駐車場から常磐線の陸橋を渡って園内に入った。平日にも拘わらず大変な人である。ただ来訪者の年頃は我々と同じくらいの人が多く、若い人はわずかであった。

梅の花はまだ満開ではないがそれでも一面花の色で覆われており春が来たことを思わせる。昔来た時には気がついていなかったがこの公園は竹林や杉林もあり梅のみならずいろいろな植物と吐玉泉という自然の泉から成り立っている。その一つに樹齢700年と言われる大きな太郎杉も見られた。また太い枯れかけた梅の老木もあったが人間の手で手入れされ先の細い枝にはちゃんと花をつけている。人の手を借りながらもまだまだ生きている証しである。人の命は短いがこれらの木々はその時代時代を生き抜きこれからも何百年と生き続けるのであろう。

帰りには水戸藩藩校の弘道館にも立ち寄った。最後の徳川将軍慶喜も5歳からこの藩校で英才教育を受けたと言う。興味深かったのは乗り物などいろんな工夫された道具の設計をして楽しんでいたようで子供の頃書いた設計図のようなものも展示されていた。当時、明治維新の激動の人生を歩むとは本人も予想していなかったと思うが、もし徳川将軍になっていなければ平賀源内のような発明家になってもう少し穏やかな人生を過ごしたのではないかと空想する。

夕方には日差しがなくなり曇り勝ちの空模様になったが雨には至らず、ちょっと早い目のなたね梅雨の合間の一日であった。