2012年5月6日日曜日

単層カーボンナノチューブの可能性を求めて

     カーボンナノチューブの未来(TASCカタログより)
 
1. 蜘蛛の糸

  「カンダタという男が地獄で血の池の中で咽びながらもがいているのに、お釈迦様が天国で気がついた。この男人を殺したり家に火をつけたり色々悪事を働いたがたった一つ、善いことをしたこととして、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのを見て早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、“いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いないとして急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったことを思いだした。それで天国から蜘蛛の糸を垂らしたところこの男はこれによじ登り地獄からの脱出を図った。」

  これは有名な芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」の一部要約である。その結末は、カンダタがこの蜘蛛の糸で地獄から極楽へ行けるかもしれないと登り始めたが、その糸の下にたくさんの罪人が登ってきて結局切れてまた地獄に落ちたという。物理現象としては蜘蛛の糸の強力では不足していたとのお話と理解する。小説ではカンダタが下からついて登ってくるたくさんの罪人を振り落とそうとした瞬間蜘蛛の糸は切れたということで、芥川龍之介は人としての生き方を伝えたかったものと思う。

 
2.繊維の歴史
                                                                                                                                           
  ところでこのような糸の材料である繊維の歴史を見ると、もともと衣服のみならず産業資材としての用途も長い歴史がある。その一つがロープ、タイヤコードのような線状の材料である。絹、麻、綿、羊毛などの天然繊維から100年ほど前にレーヨンという化学繊維が発明されその用途も広く拡大した。戦後は石油化学の発展によりナイロン、ポリエステル、アクリルの合成繊維が世界中で使われることになり大きな産業の一つとなった。さらに近年このような有機高分子化合物の大成としてパラアラミド繊維、超高重合度ポリエチレン繊維のようなスーパー繊維が使われるようになり、その機能を生かした用途も拡大し世の中の役に立っている。
 
3.単層カーボンナノチューブ(単層CNT)
 
  蜘蛛の糸はナイロンの数倍の強度を持っているといわれているがこのレベルの強度はすでにスーパー繊維の領域となっている。しかし、小説の世界とはいえカンダタのような体験を回避できる材料はこの世には存在しないようである。地獄に落ちたものは永遠に天国に登る手段はないということである。
 
  しかし今、その手段になりそうな素材が出現している。1991年、イギリスの科学雑誌「Nature」に発表されたカーボンナノチューブ(CNT)である。日本の飯島澄男博士がその詳細構造を世界で初めて明らかにし、その存在を明確なものした。もともと電子顕微鏡の権威で原子の規模までその顕微鏡写真に撮ることにも成功した研究者である。その後世界中の科学者・技術者がその製造方法、応用などの研究をしているが20年も経過してもまだ本格的な実用化には至っていない。
 
  CNTは単層と2層以上の多層からなるチューブ状の6炭素原子結合のナノサイズの材料であり、その中で多層CNTは比較的生産がしやすく一部市販されている。しかし、高強力などの特性を極度に発揮するには単層CNTが最も適している。今まで単層CNTについては生産制御が難しく大量生産が不可能とされてきた。また作るコストもあまりにも高く実用の採算ベースには程遠いことも大きな課題であった。
 
  この単層CNTは、鋼の20倍に相当する高強度の特性のほかに、銅の10倍の熱伝導性、アルミの半分の密度、構造の違いにより導電体と半導体の二つの性質、シリコンの10倍の電子移動度など、今までにない優秀な特性を持っている。天然資源に恵まれない日本にとって原料の心配の要らない素材で、その用途も高強力材料、放熱材料、半導体、導電材料、樹脂・ゴム・フィルムに混ぜることによる導電高分子材料、導電性を利用したタッチパネルなど応用範囲は広い。
 
  この日本で発見された素材をリーズナブルなコストで生産できる技術を開発し、加えて用途開発を促進する目的で一昨年国家プロジェクトがスタートした。その研究開発を実施する組織として技術研究組合「単層CNT融合新材料研究開発機構(TASC)が設立されている。
 
  企業5社と独立行政法人産業技術総合研究所(AIST)で構成され、単層CNT生産技術としてはAISTが開発したeDIPS法による単層CNT自体の生産制御技術の開発、並びにその素材を繊維化、複合化する技術の開発、加えて同じくAISTで開発されたスーパーグロス法による単層CNTを利用した複合材料の開発などを進めるものである。5年間の基盤研究・用途開発により将来の企業化を目指し、日本の根幹産業の一つにすべく努力が続けられている。発見者の飯島博士もTASCにアドバイザーとして参加している。
 
4.グラフェン
 
  一昨年のノーベル物理学賞はグラフェン発見者に与えられた。グラフェンはCNT、フラーレンと共に同じナノレベルの炭素化合物で、黒鉛であるグラファイトをその一層だけを取り出した平面状のものである。そのグラフェンが球状になるとフラーレン(この発見者もすでにノーベル賞を授与されている)、チューブ状になるとCNTということになる。この3つの炭素化合物は親兄弟関係になる。昨年度からは急遽グラフェンの研究開発もこのTASCで推進することになった。これらナノカーボン生産技術を完成させ、さらに応用展開を成功させれば日本での産業活性化に大きな役割を演じることを期待している。
 
  話はそれるが、ノーベル賞といえば一昨年の化学賞については長年勤めた会社にも在籍されていた根岸英一博士が受賞しこの上なく嬉しく思った。化学賞に与えられたのはクロスカップリング反応であるが、この反応の最初の考案者は偶然にも同じく長年勤めた会社の同僚であった。彼が京都大学熊田・玉尾研究室の大学院修士課程時代に考案したものであったことを知り(詳しくは「有機合成化学協会誌」2000年5月、と日本化学会誌「工業と化学」2011年1月に記載)、身近にノーベル賞級の研究者がいたことに世の中狭いものと感じた。著名な人物以外にも影の第一人者がいるものだというものの見方のよい例の一つと思う。
 
5.福島原発事故
 
  昨年の3月、東北では巨大地震、津波による大災害が襲ったが、さらには福島原発の事故が重大な問題を投げかけている。犠牲になられた方々、今も避難生活を余儀なくなされている方々がおられ本当に残念に思う。地震と津波は自然災害であるが原発事故は人災であるという側面も否定できない。人類は自然現象をうまく利用し世の中の人々の幸福のために役立ってきたが、歴史的に見ると逆に人々を苦しめた側面もあるのも事実である。今回の原発事故もその科学技術の負の側面を露呈したようだ。科学技術開発に携わるものにとって記憶にとどめると共に、常に負の側面も考慮した研究開発もあわせて実施することが重要であることを肝に銘じたいと思う。
 
  アスベストの経験から単層CNTの安全性についても十分な検討が必要で、重要な仕事との受け止め方をしている。単層CNTはアスベストとは異なり剛直ではなく、またカーボンであり、必ずしも同一視できるものではないというのが現在の考え方である。いずれにしも安全性についての研究も重要なテーマとしてTASCではその評価方法などの研究を実施している。的確な測定法の確立と客観的データーによる判断がなされるものと考えている。
 
  あってはならない原発事故が今起こり、福島周辺は通常とははるかに高い放射線に覆われ住民は避難している。福島近辺はこれから長期にわたって放射線の影響を受け、人は云うに及ばず、農産物、畜産物、海産物、土、水、海などすべてのものに影響を与えていくと心配される。
 
  一方、ドイツで1985年に初めて建設されたカルカールプルトニウム高速増殖炉は今、ワンダーランドカルカールという娯楽設備として営業している。この原子炉はチェルノブイリ事故のあと大論争となり、結局完成したが稼動することなく廃炉となったものである。今、ドイツカルカールの人々はこのワンダーランドで楽しみながら自然豊かな田園風景の中で生活を享受していることと思う。対照的な現状である。
 
6.負の歴史から学ぶ
 
  科学技術の発展により人々はその便利さと豊かな生活を享受しているが、一方では多大な負の歴史も作り出し人々を苦しめることも多かった。地震、津波、台風などの災害は人の力ではコントロール出来ないが、戦争、公害、薬害などの人災は人の作り出す悲劇で、人の力でコントロールできるはずである。人災を防ぐ方法はないものかとつくづく思う。
 
  このような負の歴史を作り出す源はパラドックス的詭弁ではないかと考えている。パラドックスとは、「兎が進む間に前を歩いている亀は少なくともわずか先に進み、さらに兎が進む間に亀はまたわずかでも進むので兎は永遠に追い抜くことが出来ない。」という例で代表されるように、論理的には正しく見えるが実際にはありえない論理をいう。
 
  自然科学の分野では論理・議論で決着をつけず実証主義によって決着をつけるのでパラドックス的詭弁は退けられ理論が確立する。しかし、自然科学以外の分野では論理による議論しか出来ない。このため議論の中で傲慢なパラドックス的詭弁が堂々とまかり通る。どんな考え方にもまずは肯定的に議論する、いわゆる「聴く耳を持つ」という土壌があればこのようなパラドックス的詭弁はかなり避けられると思う。
 
  「聴く耳を持つ」ということに加えて、実証主義実践不可能な分野では最後の基準として「人が傷ついたり死ぬことはないか、自然を壊わすことはないか、人のためになっているか」の3原則を基本に具体的な協議体制を構築し、それを民主的に公正に運用することで初めて人災たる負の歴史をなくすることができるのではないかと考える。
 
7.つくばの地
 
  TASCはつくばにあるAIST内に設立されたが、そこから北方を見ると筑波山が見える。その麓に蚕影(こかげ)神社という古びた社がある。その名に蚕という字が入っている通りこの地区が日本養蚕業の発祥の地であると伝えられている。
 
  養蚕業は戦前日本の輸出産業の花形で日本の外貨獲得の源であった。絹糸で出来たストッキングがアメリカ女性の足元を飾りもてはやされていたのである。当時養蚕業は今で言えば自動車産業のようなものであった。この神社には全国から多くの養蚕業の人々が参拝に訪れたという。参道階段の入り口には昔は旅館もあり参拝者が宿泊するなどたくさんの人々で賑わったそうだ。
 
  しかし、デュポン社がナイロンを発明、このナイロンが戦後世界的に普及し日本の養蚕業は壊滅する。いまでは参拝客もなくこの神社は廃墟に近い状況となっている。今はその参道入り口に古びた1軒の民家がありそこでほそぼそと絵葉書などを売っているに過ぎない。
 
  素材の変換はドラスチックに進む。花形産業も新しい商品の出現により消滅する。繊維の世界でも有機合成繊維の時代から、近い将来単層CNTのような新しい素材に取って代わることもあり得る。特に産業資材用途ではその可能性は強い。このつくばの地での単層CNTの研究活動を通じて新しい産業創出に成功し、つくばが新たに単層CNT産業発祥の地といわれるようになってほしいと願っている。
 
8.夢
 
  芥川龍之介は天国と地獄をつなぐ手段として蜘蛛の糸を使った。現実の世界での同じような発想として宇宙エレベーターがある。現在宇宙と地上を結ぶ手段はロケット、スペースシャトルなどあるが多くの人々を運ぶことは不可能である。宇宙エレベーターが出来れば多くの人々が比較的容易に宇宙に行くことができ、宇宙生活も可能になる。この宇宙エレベーターのロープには、この単層CNT製ならば使える可能性を秘めている。宇宙エレベーターを使って一般の人々も宇宙で生活しているという夢物語を思いめぐらし、単層CNTの可能性を求めてもうしばらく毎日を励みたいと思っている。