2009年12月27日日曜日

利尻富士と宗谷岬



恒例の第九交響曲を聴きに出かけた。つくばから常磐道を通り東京自宅に入り、車を置いて地下鉄千代田線で六本木サントリーホールに向かった。昨年は常磐道から雪の富士山を見ることが出来たが今回は晴天とはいえ霞がかかり残念ながら見ることが出来なかった。コバケンこと小林研一郎指揮の日本フィルハーモニーの演奏会である。

コバケンは現在オランダのアーネムフィルハーモニーの常任指揮者であるが、日本に帰国しての指揮であった。このアーネムフィルハーモニーは勤めていた会社がスポンサーになっていることもあり、この春日本で演奏会があったときにも聴きに出かけている。この時もコバケン指揮、サントリーホールであった。最前列で指揮者の真後ろということもあってコバケンのうなり声とともにその迫力に圧倒された。今回は中ほどの席ではあったが時たまそのうなり声もかすかに聞かれた。迫力と共に叙情的な美しい表現も堪能させてもらった。

聴きながらこの一年の出来事を思い浮かべた。記憶に残ることといえば、三回目の北海道旅行である。子供が小さいころに道南をドライブ、ドイツから帰国直後に道東をドライブ、そしてこの夏は道北をドライブした。大洗からフェリーで苫小牧に入り、名寄、サロベツ湿原、礼文島、利尻島、稚内、宗谷岬、紋別、サロマ湖、旭川、積丹半島、函館、そして青函フェリーで青森へ、奥入瀬渓谷、十和田湖を経て東北自動車道、常磐道でつくばに戻った。

日本には富士山の形に似た山がたくさんあるが利尻富士もその一つで印象に残った。日本最北端宗谷岬、その先の樺太は見えなかったがすぐそこはロシア。紋別ではロシア人を結構多く見かけ地理的にロシアが近いことを実感させられた。昔道南をドライブしたときに行けなかった積丹半島にも足を伸ばし積丹ブルーの美しい海も楽しませてくれた。ドライブ距離約2500kmの旅であった。

ドイツ時代の知り合いの方が現在北海道はニセコ近くの欄越町に住んでおられ白アスパラガスを栽培しているとの情報もあった。ドイツ時代唯一の美味、白アスパラガスを思い出し(バルベック/ヨーロッパ駐在日記 )、次回はアスパラの季節にもドライブしたいと思う。

今年もあとわずかになった。この一年も無事に過ごせたことを感謝しつつ、来年もこの恒例の第九交響曲が聴きに行けるよう願っている。

2009年10月3日土曜日

我が蕎麦畑

この7月、近くの農家から約100坪の農地を借り家庭菜園をやりだした。8月の盆あけに蒔いた蕎麦の花が今満開になっている。昨年来自分流のやり方で蕎麦打ちをしているが畑を借りることになり、原料からすべて自作で出来ないかトライすることにした。

種を蒔いてしばらくすると芽が出て、借りた畑の2/3は一面蕎麦畑になった。近くを通りすがった農家の方が、まだ若芽の間に間引きして湯がいて御浸しにするとおいしいよと教えてくれた。食べてみるとなかなか美味しいものであることも初めて経験した。間引いた若芽も無駄にすることなく食するという農家の方の生活の知恵というものなのだろう。

家庭菜園をするとは考えてもいなかったが、雑誌でダンボールコンポストの記事を目にして我が家でもやってみようと思ったのがことの始まり。この3月から家で出てくる生ごみはダンボールコンポスト器に入れ毎日攪拌し処理し続けた。5月ころには生ごみは分解されコンポストが完成、1ヵ月ほどねかせると肥料が出来た。それでこの肥料を有効に使うべく、野菜を購入している農家に使って下さいと申し入れた。しかし肥料は決めたものを使っているとのことで断られたことから、捨てるのももったいなくそれなら自分で使うことを考えることにした。そして近所の何軒かの農家の方を訪れて交渉し畑を借りることになったもの。

休耕地であるため雑草で覆いつくされていた。草刈し、農機具屋から小型耕運機を借り耕し、畑として使えるようになったのは7月の下旬。まずは約10mほど一畝分だけの苗を買い込み植えた。青葉、ツルムラサキ、オクラ、きゅうり、ゴーヤ、なす、トマト、シシトウ、ピーマン、春菊、ミョウガなど。この夏は毎日のように自家製の野菜を食べ堪能した。

蕎麦に続いて、残りの畝には大根、にんじん、九条ねぎ、にら、玉葱、白菜、キャベツ、ほうれん草、小松菜、大豆などの種を蒔いた。すでに芽を出し緑の畑に変貌している。一番最初に蒔いた大根は立派に成長し、収穫して大根ステーキなどして美味しくいただいている。7~80本近くは採れそうで食べきれないので近所の方に食べていただく予定である。

さらには、畑の境界には柿、りんご、梨、栗、琵琶の苗木も植えた。何年後になるかは知らないが果実のなることも期待している。もう一つ実験的に小さいながら水田も作った。いつも食べている玄米の中に混ざっていた籾付のものを水に入れてマンションのベランダに置いておいたところ芽を出した。時期的には遅かったが田植えをした。いま稲穂が出ており、お米が採れるか楽しみである。

2009年5月5日火曜日

三春の滝桜(葉桜)

日本三大桜とは岐阜県の根尾谷淡墨桜、山梨県の山高神代桜、そして三春の滝桜をさす。八戸からの帰り道の途中、郡山で高速道路をおり三大桜で有名な三春の滝桜を見ることにした。この4月福島花見山を訪れたとき三春の滝桜は三分咲きとの情報を得ていたが時間がなく立ち寄ることが出来なかった。

連休のUターンラッシュで福島トンネル付近の渋滞はあったが停止することはなく午後3時ころには三春に着いた。すでに花は散り緑美しい葉桜に変貌していたが、その幹の太さには圧倒される。直径は2m以上か。1000年以上に渡って生き続けているという。その幹からのエネルギーは人間にも伝わるというが真実のように感じられた。次回はぜひとも花満開の時に来たいと思う。

磐越道から常磐道に入り、その後は渋滞もなくつくば自宅には夜7時ころに着いた。大きなトラブルもなく今回の東北ドライブ旅行を終えた。総走行距離1843kmであった。弘前で買ったりんごは旅行中食べきれずお土産として残った。

2009年5月4日月曜日

本州最北端大間崎


大間崎の表示

大間崎と弁天島

本州最南端は潮岬、最西端は山口県の毘沙の鼻、最東端は岩手県魹ケ崎(とどケさき)、そして最北端は大間崎である。下関の北に位置する毘沙の鼻は広島に住んでいるころドライブしているが、今回ようやく最北端の大間崎に来ることができた。

対岸には函館山が見えるとのことであるが本日は天気が良いがもやがかかり見ることは出来なかった。みやげ物や食堂など観光客目当ての店があり多くの人で賑わっていた。もちろん有名なマグロも食べられたがまだ朝早く昼食には早いためあきらめることにし、海産物をお土産に買うにとどめた。

そのあと陸奥湾側海岸沿いにドライブし、途中仏が浦の奇岩の群れを見て下北半島の東側から八戸に向かった。山間の道にはまたまた水芭蕉の群生が見られ楽しませてくれた。六ヶ所村には広大な平原に立ち入り禁止のまた広大な敷地があり、これが原子力関係の施設であることが分かった。付近の道、公共設備などが立派で、原子力設備の代償としての助成金が豊富に使われていることもよく分かった。

夕方には八戸に着き、夕食は創作料理店「うおんさい」でとった。湯葉料理、古代米料理など特徴があるが特に古代米バッテラは鯖の何ともいえないうま味があり非常に美味しいものであった。

2009年5月3日日曜日

水芭蕉の花


広島北部にも水芭蕉の群生するところがあり訪れたことがあるが、恐山から下風呂温泉に向かう途中の山中で水芭蕉の花が満開のところを通りかかった。思わず車を止めて写真に撮った。

水芭蕉といえば尾瀬が有名であるが、尾瀬が特に名をはせているのは歌の影響が大きい。中田喜直の「夏の思い出」である。この澄んだ歌声は水芭蕉の花の清楚な美しさを想像させ、より魅力的な花の印象を与えることになったのだろう。

ある程度の高地と沼地があれば日本のどこでも水芭蕉は育つようである。ヨーロッパにいるころスイスの山々をドライブしたときにはエーデルワイスの花が見られたが、同じようにこの水芭蕉もその土地に育つ花として毎年人々を楽しませてくれているものと思う。

山道を降りる手前に薬研渓流があり道をそれて渓流を上った。渓流といえば奥入瀬渓流をサイクリングしたことがあるが、ちょうどその小型版との感じであった。渓流の上流には薬研温泉があり露天風呂で楽しむ人も見られた。足湯もあり足を温めながら休憩をとった。

足湯の後、山を下り下風呂温泉に入った。ここは井上靖が小説「海峡」を書くために宿泊したところでその宿泊した有名な旅館がある。しかし、あいにく満室で泊まれずとなりのホテルに泊まることになった。

恐山

日本三大霊場といえば比叡山、高野山、そして恐山である。京都で生まれ育っているので比叡山延暦寺は身近な存在であった。また高野山も何回か訪れ木々が茂る奥深い森林の中の独特の荘重な雰囲気で気持ちが引き締まるのを経験している。恐山はその名前どおり何か恐ろしい場所ではないかと思いつつドライブ、山を越えまもなく湖が見えその湖畔にある駐車場に着いた。

この数日前まではこの山越えが出来ず通行止めだったそうだ。いっせいに参拝者が押し寄せたようで駐車場はいっぱいであった。車のナンバーを見ると東京、大阪など遠くからの人々が多い。1000円という高速道路の特別料金が大きな理由であろう。

湖の回りの山々には木々があるが、比叡山、高野山の様相とは全く異なり、盆地にある境内には樹木はほとんどなく硫黄の噴出する荒地の中にお寺の伽藍がある。夜はさぞかし不気味な雰囲気であろうと思う。霊魂が集まると言われる所以が分かる。

昨日青森で夕食をした豆腐料理店「豆のや」が作ってくれたお弁当を駐車場の車の中で食べ今夜の泊まるところ下風呂温泉に向かった。

2009年5月2日土曜日

弘前城からの岩木山


小岩井農場の桜を見た後東北道を北上し弘前に入った。弘前城近くの駐車場はどこも満員であったがお堀近くの公営駐車場に運よく車を止めることが出来た。

毎年この五月連休時に桜が満開になるとのことで有名な弘前城であるが今年は少し早く咲き始め今日はすでに満開を過ぎていた。しかし枝垂れ桜などまだ満開の桜も結構多く桜のトンネルを歩いた。

ここからは岩木山が目の前に広がり、その銀色の山を写真におさめることが出来た。出店もたくさん出ており、これからのドライブ、土産にたくさんのりんごを買い求めた。大きなりんごでなかなか美味しい。この連休中のドライブのおやつに楽しみにして食べたいが、お土産として残るか疑問ではある。

夕方には青森市に入り、棟方志功記念館を見て回った。若い頃一度来ているのであるが、そのときは閉館しており中には入れず入り口で写真をとったに過ぎなかった。有名なサンパウロ・ベニス・ビエンナーレ賞をとった「釈迦十大弟子」の版画を初めて見ることが出来た。その前に立つと何か迫ってくるものを感じた。志功のエネルギーが伝わってくるようであった。

小岩井農場一本桜と岩手山

昨年の10月に八幡平、小岩井農場をドライブしたがあいにく天候が悪く岩手山も全貌を見ることが出来なかった。それから半年、ようやく春になり桜も見られるとの期待からこの五月連休に再度訪れた。

昨日は花巻に入り宮沢賢治のゆかりの地を訪れた。記念館は北上川を望める木々の茂る丘の上にあり賢治の足跡を示すいろいろなものが展示されていた。もともと農学を修めた科学者であるが、文学にも、またチェロを弾いたように音楽にも、絵画にも、天文学にも、地質学にも多彩な能力を発揮した人である。これだけの実績を残しているからにはそれなりの長い人生であったのかと思っていたが、36歳という若さで一生を終えていることを今回初めて知った。何事にも真剣に取り組み人生を全速力でかけめっぐった偉大な人物と驚嘆した。

そして今日は天気もよく山々がはっきりと見える。まだ雪で覆われた銀色の岩手山を背景に小岩井農場の一本桜を見ることができた。銀色の山、それに映える桜の色と地面の緑の配色が誠に美しい光景であった。その前は大変な人出で、バスもピストン運転で観光客を運んでいた。宮沢賢治もこの岩手山をふるさとの山として愛していたという。日本には各所に山がありその山々の恩恵を受けて生きていける。岩手山の恩恵をうけてこれからも脈々と生活が続いて行くのであろう。


2009年4月12日日曜日

福島花見山の桜


先日つくば自宅に来客があり、その方から福島に花見山という桜の名所があると聞いていた。そしてタイミングよく 昨日のテレビでその花見山から中継でその桜を紹介していた。1軒の農家が所有している山にこつこつと桜などの花木を植え育て、きれいな花を皆さんに楽しんでもらいたいという善意で私有地を公開しているという。今日さっそく見に行くことにした。
行きは常磐道で途中高速道路から降りて郡山にある「銀河のほとり」というマクロビレストランで昼食をとった後、福島に着いた。その山近くになると車の渋滞となったが、阿武隈川土手に臨時駐車場がありなんとか駐車することが出来た。そこからは山の登り口まで臨時バスで行くことになった。
私有地であるため飲んだり食べたりの宴会はなく皆さん歩いて山の花を観賞しながら見て回るという楽しみ方である。桜のみならず、黄色い花、真っ赤な花、白い花などいろんな花を楽しむことが出来た。東京ではすでに桜は散りつつあるが、ここ福島ではちょうど満開で今年最後と思われる桜を満喫した。
帰りは福島市内の蕎麦屋でそば夕食をとり、東北道を南下しそのまま宇都宮まで走り、昨年末開通した北関東自動車道で常磐道に入った。今までは日光、那須などへ行くときはつくばからは在来の道を走らなければならず、時間がかかることが難点であった。高速料金がいるが、時間的には本当に便利になった。結局、往復630kmのドライブの一日となった。
ドライブしやすくなったと言えば、いま高速道路は1000円という特別料金になっており、本日の料金は締めて2000円で済んだ。しかし、給付金といい単純に喜んで良いのか。いずれ選挙が終われば大増税時代が来るのは目に見えているのだから。

2009年4月11日土曜日

福岡堰の桜


400年ほど前の江戸時代につくば西南に位置する谷和原、伊奈、藤代地区の広大な農地に水田灌漑用水路を確保するために小貝川に作られたのが福岡堰。その土手にいまでは1.7kmに渡って桜が植えられ桜の名所となっている。
                  
今週、東京からの帰りは高速道路を使わず在来道路をドライブしその途中、福岡堰を見て帰ることにした。しかし東京を出るのが遅くなり、結局福岡堰に着いたときにはすでに太陽は沈み桜を見ることは出来なかった。場所の確認だけは出来たことを良いとしてつくばに戻った。

そして今日、天気も良いので再度出かけた。福岡堰の駐車場はいっぱい。しばらく待っていたがまもなく空きができて駐車することができた。

用水路と小貝川の間の土手は桜のトンネルになっており、花見している人、散歩している人などで大変な人で賑わっていた。もうこの週末が最後のチャンスで、風に吹かれて花吹雪の様相も見られた。延々と続く桜並木。この堰・土手を作るには、多くの農民が使役として動員されたことだろう。年貢を納めるために農作業もしなければならない農民にとっては大変な苦しみではなかったのかと考えてしまう。

花見を楽しんでいる我々は、この堰・土手が作られたときの本当の歴史も知っておく必要があるように思う。残念ながらこの事業を企てた人だけが歴史の説明のかんばんには記載されている。名もない農民の血と汗の結晶がこの堰ならびに用水路であろうと思いつつ、美しい花の長いトンネルを往復した。

東京自宅の桜も散り始めており、この週末で関東地方の桜はシーズンを終わるようである。先日テレビで桜職人の名人が言っていたが、桜にとっては花を咲かせることがこの一年の終わりでこれから新しい葉が出てきて新しい年を迎えることになるそうである。人間にとっても春が実質一年の始まりといえる。

2009年4月8日水曜日

東京自宅マンションの桜


  今年もようやく桜が満開になった。3月末から4月はじめにかけて寒い日が続き膨らみかけていたつぼみが硬くなっていた。数日前から暖かくなりすっかり春の季節になった。東京のマンションに住み始めて30年弱になる。

  30歳にして東京に転勤になり、まもなく自宅を確保すべくいろんなところを探して回ったが、我々団塊の世代が大挙して住むところを購入しだしたときでもあった。霞ヶ関への通勤の便利なところということで都内のマンションを探したが、いつも希望者が多く抽選であった。何回もいろんな場所の申し込みをしたが落選ばかり。そういえば大学受験もある受けた大学は競争率40倍であった。今では考えられない数字であった。住むところを購入するのも競争になるとは思いもよらなかった。
 
  その結果やっと当選したのが今のマンション。ちょうど入居したのが3月でこの桜はその時から美しい花を咲かせてくれている。当時の幹は小さいものであったが、今では40~50cmはある。堂々とした木に成長した。秋には葉が紅葉し、春と秋の2度美しい光景を楽しませてくれている。
 
  ところで30年ほど前、このマンションに入居してまもなく駐車場に真っ赤な新車のポルシェがあるのに気がついた。運転手が近くから訪れて運転しているようであった。だれが乗っているのであろうかと思っていたが、この持ち主である住人はビートたけしであった。当時のその運転手が東国原宮崎県知事であったことは、知事に当選しテレビで昔話をしているのを聞いて知った次第である。知事は近くに下宿していたという。
 
  最初はあまり知られていなかったがまわりに知れるところとなりファンがうろうろするようになった。奥さん、子供と一緒に住んでおり、わが子供、妻とも仲良くしていた。家にお邪魔しその当時のタケチャンマンのぬいぐるみで遊んでいる写真が残っている。そしてまもなく白亜の大御殿に引越して行った。
 
  このような思い出もついこの間のように思い出される。5年ほど前には全面的リニューアルをして、バリアーフリーの構造に改造され新しい美しいマンションに生まれ変わっている。東京自宅では部屋から見下ろす形で花見が楽しめる。これからも毎年この桜が春を知らせてくれることを楽しみに過ごしたいと思う。

2009年3月7日土曜日

五浦の鮟鱇


一年前は広島は三原に住んでいた。ここの地酒である酔心は今ではその名の料理屋も東京にあり名前はよく知られている。このお酒をこよなく愛した人に横山大観がいる。とにかく酒好きで食事代わりに毎日1~2升酒を飲んだと言う。ほとんどアルコール依存症の中で作品を描いていたことは容易に推測できる。それを支えていたのがこの酔心の蔵元。代金代わりに作品を年に一回は送ってもらっていたという。四六時中酒が飲みたい大観と日本画の巨匠の作品が入手出来るという利害が一致したのだろう。今では酔心は大観展示会を定期的に催しているという。この横山大観が水戸の出身で岡倉天心と共に五浦に住み創作活動に励んだとのことを今回初めて知った。                                        
ニュースで五浦の茨城県天心記念美術館で「東京美術学校に学んだ日本画家たち」の特別展が開催されていると報じていたので出かけることにした。常磐道日立北で降りてまずは蕎麦の傳六で昼食をとった。住宅街にありもともと自宅の庭であった所に店を開いたと言う。細めの十割蕎麦とてんぷら、それから卵焼きを頂いた。蕎麦は腰もあり細いのでヌードル独特の感触も味わった。ただ卵焼きは甘みが強く、最近砂糖を食べないようにしていることもあり今の好みには合わなかった。以前なら喜んで食べていたと思う。                                                
今日は土曜日でもあるので自動車、観光バスなどでたくさんの人が訪れていた。東京美術学校の初代校長であった岡倉天心は当時まだ20才台であったと言う。明治の偉人は若くして重要なポストについて日本の近代化に尽くしたことが理解できる。その弟子の一人が横山大観である。天心が美術学校を辞めた後この五浦に住み大観などと共に創作活動を続けた。太平洋の小さな入り江の絶壁にその建物があり、太平洋の荒波の音を聞き、太平洋を眺望しながらの生活であったようだ。                                        
この近くには観光ホテル、民宿など観光施設もありこの景観を楽しみに来る人も多い。その中に鮟鱇料理店もありその玄関に鮟鱇解体の実物を見ることが出来た。ドイツ時代、ドイツの田舎では豚をつるして解体し骨以外はすべてソーセージなどに加工し食料として利用していることを知ったが、同じような食文化と感じる。鮟鱇鍋を食べたかったが、お昼のお蕎麦でお腹がいっぱいなので今回は断念した。次回はぜひとも鮟鱇鍋を食べたいと思う。

2009年3月5日木曜日

水戸偕楽園の太郎杉


季節の変わり目か? 最近ぐずついた天気が続いているが、久しぶりに回復し朝から日差しを見ることが出来た。11時ころにつくば自宅を出て水戸に向かった。水戸は今までにも何回か出かけているが、東京から出るため、行楽に一日かけて行くという気分であった。今回はちょっと近くへ外出するとの気楽な気持ちで出かけた。

40分ほどで水戸に着き昼食は蕎麦一久でとった。かなり腰のある細めの手打ち蕎麦で美味しく頂いた。ここは蕎麦の他におやきも有名とのことで、山菜と野沢菜の入ったおやきも食べた。なんともいえないうまみがあり絶品であった。

昼食後偕楽園に向かった。昔来た時は常磐線で偕楽園駅を降りてすぐ園に入った記憶がある。今回は駐車場から常磐線の陸橋を渡って園内に入った。平日にも拘わらず大変な人である。ただ来訪者の年頃は我々と同じくらいの人が多く、若い人はわずかであった。

梅の花はまだ満開ではないがそれでも一面花の色で覆われており春が来たことを思わせる。昔来た時には気がついていなかったがこの公園は竹林や杉林もあり梅のみならずいろいろな植物と吐玉泉という自然の泉から成り立っている。その一つに樹齢700年と言われる大きな太郎杉も見られた。また太い枯れかけた梅の老木もあったが人間の手で手入れされ先の細い枝にはちゃんと花をつけている。人の手を借りながらもまだまだ生きている証しである。人の命は短いがこれらの木々はその時代時代を生き抜きこれからも何百年と生き続けるのであろう。

帰りには水戸藩藩校の弘道館にも立ち寄った。最後の徳川将軍慶喜も5歳からこの藩校で英才教育を受けたと言う。興味深かったのは乗り物などいろんな工夫された道具の設計をして楽しんでいたようで子供の頃書いた設計図のようなものも展示されていた。当時、明治維新の激動の人生を歩むとは本人も予想していなかったと思うが、もし徳川将軍になっていなければ平賀源内のような発明家になってもう少し穏やかな人生を過ごしたのではないかと空想する。

夕方には日差しがなくなり曇り勝ちの空模様になったが雨には至らず、ちょっと早い目のなたね梅雨の合間の一日であった。

2009年2月28日土曜日

我が家のお雛様


長女が生まれた時は石川県小松に住んでいた。お雛様を購入するため金沢市へ出向き木目込み人形のお雛様を買い、それ以来毎年飾るようにしてきた。転勤による移動のためにそのつど家の都合により飾り方はいろいろであった。たとえばドイツにいるときは本箱の飾り棚の花瓶などを移動させてそこに置いた。また机の上に並べることもあった。
つくばに住みだして初めてのひな祭りであるので、また今後は転勤もないのではじめて専用ひな壇を作ることにした。木を購入3段のひな壇を作り、その上に赤い毛氈を敷いて人形を飾った。やはりきっちとした段飾りにするとひな祭りらしくなった。先週見に行った真壁のお雛様と比べてかわいい顔した人形たちである。これからもこのひな壇に人形を飾りひな祭りを祝いたいと思う。

2009年2月22日日曜日

真壁からの筑波山

           (真壁のひな祭り) 
*                                                 筑波山北にある真壁町は石の町で知られているが、今ひな祭りで賑わっている。今まで何回か訪れているが普通の日には町にはほとんど人影は見られず古い旧家の趣のある家々を見て通り過ぎるのみであった。今日初めてじっくりと町を歩いた。
さすがまつりであるため臨時の駐車場もあり、車でいっぱいであった。観光バスも3~4台駐車しており、筑波山梅林祭りと組んだ日帰りツアーのようであった。町並みの中も人がいっぱい。各家にお雛様が飾られ、家の中に入って見ることが出きる。三原に住んでいたときにも、広島でも上下町とか竹原でも同じようにひな祭りがあり見に行っているがこれほど人は多くなかった。観光バスでのツアーコースに組み込まれていることが大きな違いではないかと思う。
江戸時代のお雛様や最近のもの、木目込み人形など、あるお家の人に聞くと新しいお雛様は孫のものとの話をしていた。一通り見て歩いてお腹が空いたのと休憩のためすいとんを食べた。なぜ真壁ですいとんなのか理由は分からないがなかなか美味しかった。このまつりの食べものとして宣伝しているようである。
今まで筑波山をいろんな場所から見てきたが、真壁から見る筑波山は近くであることから大きく見え、また二つのピークが最も幅広く離れており、筑波山の特徴が一番はっきりする光景であった。帰りまもなく車がのろのろ運転になった。その理由は道が筑波梅林からの帰り道と合流しているためであった。渋滞を避けるため、わき道にそれてつくばの田舎道を満喫しながらの帰宅となった。

2009年2月16日月曜日

つくば牡丹園


つくば近辺にはフラワーガーデンがたくさんある。その一つが牛久沼近くにあるつくば牡丹園で、午後訪れることにした。

自宅から約10km、車で30分ほどで着いた。ちょうど冬牡丹が赤、白、ピンクなど色とりどり、大輪あり、少し小さ目の花あり、花はいつ見ても美しく心を和ませてくれる。
牡丹は普通春と秋に咲く花というが、今咲いている牡丹は工夫して冬場に咲かせるようにしたもの。
冬場は美しい花が少ないがこの牡丹はその少ない花のうちの一つということで、観賞用として貴重なものになっている。
筑波山近くの平地には夏場一面ひまわり畑のところもあり、他にもいろいろな花を見ることが出来る。これからも四季の花々を楽しめそうである。

2009年2月12日木曜日

筑波山梅林からの関東平野


筑波山梅林は筑波山の中腹にある。すでに梅林の梅が咲き始めているとの情報があったので出かけることにした。めずらしく妻から今日は自分の車で行こうという。いつもは私から、一週間に一度は車を動かしてやらないとバッテイリーがあがってしまうよと言っているのにどうしたことか。しばらく運転していないこともあり運転したくなったようで、とにかく妻の車で出かけた。

駐車場に車をとめて梅林を登った。いろいろな梅林を見て歩いているが関東平野が眺望できて雄大な景色が堪能できる点、今まで経験したことのないことであった。花は紅梅、白梅、八重の紅梅など3部咲き程度であるが、すでに満開に近い木々もあり、関東平野を一望出来る梅の木の下で休憩した。霞がかかり遠くの富士は見ることは出来なかった。手持ちのケーキを食べながらお茶を飲み日光浴、妻は太極拳のエクササイズをしたりして景色を楽しんだ。
梅祭りは来週からということでまだ人は少ないが、私たちと同じような退職した夫婦の方々が見られた。平日に来られるのは退職後の大きなメリットで皆さんも思いは同じようだ。帰りは旧筑波街道を走った。道は狭く妻も運転はしずらかったようであるが、昔ながらの旧家の屋敷など見られ趣のある街道であった。
筑波山麓は気温が低いがその中腹はいつも暖かいという。気温の反転現象と言われている。梅林の雰囲気は春が近いそのものであったが、テレビのニュースで筑波山中腹には福寿草が咲き始めたと伝えていた。まだまだ寒い日は続くと思うが、日が沈むのも少しずつ遅くなり春の足音は着実に近づいているようである。

2009年1月17日土曜日

吉瀬からの筑波山

会社勤めし初めて赴任した場所は石川県は小松であった。約30年ぶりではないかと思うが、その小松時代の同じ社宅で住んでいたご夫婦と会うことができた。その後ご夫婦も同じように東京勤めとなり若いときに竜ヶ崎に住居を構えずっと住んでおられる。つくばからは近いところであるのでお会いしたいと思っていたがようやく実現したもの。家の近くの森、吉瀬にあるイタリアンレストラン、イル・クウォーレで昼食を共にした。

私より年上の方でずいぶん前に定年退職しておられるが、昨年まではタイで技術の仕事を続けられていたという。髪は白ぽくなっているがお元気であった。

昔話に話が咲き、いろいろな方々の現況の確認の場にもなった。小松時代の共通の思い出話として、文化勲章の陶芸家浅蔵五十吉さんの話になった。当時会社のすぐ近くにその陶芸家のお家があり、同僚の送別には記念品として必ずその作品を購入し手渡していた。ご夫婦も小松を離れるとき壷をもらったという。その記念品を箱に入れ長い間持っていたが、最近取り出し飾るようになったという。当時まさか文化勲章をもらうまでの作品とはお互い認識していなかったと思いは同じであった。

実はわが家にも一つ作品があり、今は木箱に入れて大切に保管してある。私の場合は2つ個人的に購入し、一つは父の世話になった人に贈り物として差し上げた。今その方は文化勲章の陶芸家の作品であることを認識しておられるか気になるところである。木箱には作者名、経歴など記入された説明書(当時はまだ文化勲章はもらっていない)が入っており、興味ある人なら気がついておられることと思う。

いろんな話題で話が途切れることなくあっという間に2時間が過ぎ昼食を終えた。向かいにはルーラルハウス吉瀬がありそこでお茶タイムを過ごしお別れした。これからもこのようなつながりを持ち続け楽しみの一つにしていきたいと思っている。

2009年1月11日日曜日

霞ヶ浦からの筑波山

北日本、日本海側は雪景色の今日このごろであるが昨日今日と太平洋側は良い天気である。今日は成人式。マンション玄関を出ると、その前でお母さんが振袖で着飾った娘さんの写真を撮っている光景が見られた。10数年の前のことではあるが当時ドイツに住んでいて、娘たちは日本に帰り大学生。わが娘達の成人式の晴れ姿は見ていない。振袖姿の写真をみるだけであった。その後卒業式、結婚式などのときにその姿を見てやはり日本の女性には振袖が着飾る衣服としては一番と思いつつ、駐車場に向かった。今日は霞ヶ浦自転車道をサイクリングするためである。

霞ヶ浦歩崎公園には水族館と大きな駐車場がありそこに車を置き、お昼を過ぎていたのでまずはお結びとパンを食べ手持ちの熱い紅茶を飲み一服した。そして自転車を組み立て霞ヶ浦水辺沿いに整備された自転車道を、先日走った恋瀬川自転車道の終点である恋瀬川桜づつみ(愛郷橋)に向かって走った。最初は自転車専用道路であるが途中から自動車も走れる道となっている。

霞ヶ浦大橋のところを過ぎると前に筑波山が良く見えるようになる。水辺には水鳥が群れをなしており、鷺など大きな鳥も空に舞っている。小さな漁港が結構あり漁師で生計を立てている人がいるようである。途中白い魚を籠いっぱいに水揚げしている年老いた漁師さんがいたので魚の名前を聞いた。白魚という。魚釣りを楽しむ人も見かけ、釣り上げた魚を見ると30cmはある大きな魚も含まれていた。霞ヶ浦といえば汚れている湖の代表のように思われているが食べ物としての魚の貴重な源になっているようである。

自転車道片側は湖であるが、反対側を良く見ると二本の大きな鉄パイプが延々と敷かれている。ところどころで湖にその端が突っ込まれている。カンバンには汚泥を運んで水の浄化をしていると書かれている。このような地道な努力によりこれからも魚が住める環境を維持できるのであろう。

湖岸の一部工事のところ1キロほどと恋瀬川桜づつみ手前約1キロの二箇所が舗装されず砂利道で走りずらいがそれ以外の道はきれいに舗装されて非常に走りやすい自転車道である。ただ、自転車専用の箇所は一部でほとんどは自動車も走ることが出来ることからたまにであるが自動車には気を使う。

行きは約1時間半かかり、帰りは1時間ちょっとで歩崎公園に戻った。往復36kmのサイクリングであった。自転車の車輪をはずし車に乗せてつくばへ帰ろうとしたが、歩崎から土浦までもこの道は続いていることが分かり、帰りはこの道に沿ってドライブした。土浦まで約15kmくらいあり次回は自転車でトライしたい。

2009年1月1日木曜日

初日の出

つくばに住み始めてはじめたことの一つが蕎麦打ち。蕎麦打ちとはいっても普通の方法ではなく、ドイツに住んでいた頃使っていたスパゲッティ作りの道具を使う。当時はうどんが食べたく自分で作ることを考えこの道具を使ってうどんを味わっていた。

つくばに来ていろいろ蕎麦屋を調べて食べ歩いているが、残念ながら広島の尾道茶話駄、それから豊平の高橋名人の達磨の味には及ばない。そこでとうとう自分でトライすることにした。そば粉は近くでとれる常陸蕎麦を使う二八蕎麦である。

この大晦日はこの自分流蕎麦で妻と二人きりで味わった。高橋名人には及ばないと思うがなかなか美味しい。揚げたての野菜のかき揚もうまくマッチングし最高であった。普通のうどん、スパゲッティ作りとは異なる方法が必要であることも分かりこれからの楽しみの一つになりそうである。

新年早々いい天気で朝7時ころ東に初日の出を見ることが出来た。今年も毎日毎日を大切に過ごしたいと思っている。